上海@ひとりホテル
金曜日に上海に来て3日目。
中高の部活の後輩とその友達のドイツ人が郊外に遊びに行っている中、疲れたといってひとりホテルでボケっとしている私です。
よくよく考えれば、ドイツの研修旅行でも、ジャカルタ出張でも、バリ、ジャワのメディア招待旅行でもいっつもそう。
グループで来ていて、疲れて私ひとりでスケジュールスキップするっていうやつ。
繊細とか気を遣いすぎる無理しすぎるとか原因は色々考えたけど、結構どうでもいい。囲まれた異国の空間にひとりでいるのが割と好きなのかもね、そうじゃないのかもね。
上海。結構落ち着いていてなんら違和感はない。どこでも中国語で話しかけられるので、私は中国人に見えるのだろう。インドネシア、タイ、フィリンピンとかでは、現地の華僑にしか見えないと言われて、本場中国でも中国人に見られるのなら、アジアどこいってもわたしは馴染めるのだな。最強。
中国は、歴史もあるし、人も強いイメージがあったので警戒していたのだけど、地下鉄や観光地を巡った限りはみんな普通な感じだった。
グーグルとフェイスブック、YouTubeが使えないことは結構衝撃だけどね。
私が思うウェブの8割が禁止って。
その労力たるや凄いだろうな。世界がそっちの方向なのに独自路線を行くって凄いエネルギー使いそう。
街中では、モバイル決済が相当進んでて、買い物とか電車とかみんなピッみたい。でも上海しか使えないらしい。不便。だって中国まぢで広いもんね。
パイがちゃいまっせ。郊外のマンション群は、ちょっと気持ち悪いくらいだった。
明後日帰る。
幸運が重なり、現地通貨一円も持ってないのにやってけてる笑
インドネシアとかマレーシアであんなに孤軍奮闘してた自分が哀れーーー(╹◡╹)
分かったこと
世界はまだまだまだ、本当に広い。
外国に来たから何かが変わるわけではないが、外人と気を遣わずテキトーな英語で過ごすのはほんと楽。
ひとりホテルお留守番はお腹が空く。
ダウナーな日
今日はダウナーな日だった
こういう日は、
何もやる気がしない、
人と連絡するのがとにかく億劫、
お腹空いてるのかどうかよく分からない、
体に力が入らない、
歩けなくなって地面にへたり込みそうになる、
手が動かない、
頭が働かない、
そんな日もある。
ただの日記を垂れ流す作戦ー吉開菜央さんの映画を見て体の遊びについて叫ぶ人
昨日見た吉開菜央監督の映画の余韻にまだ浸っている…
lemon のMVで踊っている彼女に惚れてググったら、同い年で映画監督をしていることが判明。池袋で彼女の監督作品が上映&トークイベントもあるとのことで昨日行ってきたんですけどね。
このMVもダンサーさん。素敵や。
…………
めっちゃよかった。
もうね、映画見てる最中、そうそうそうそう!そこや!という悶絶が止まらない。
別に私は映像撮ったこともないし、普段踊ってる訳じゃないんだけど、自分の感覚とすごく共鳴した部分があったみたい。
私も踊りたい、私もやりたい熱が強すぎて何も手が付かない。
呆けた状態。ぼおっとしている状態。
(でもね、今日はビン・カンのゴミを捨てる日だからちゃんと捨てにいったよ。)
いきなり画面に女の子のおへそのアップが出てきて、それに違う女の子が吸い付いていく描写を見た時から、私の中で「待ってました。これやこれや」という感覚が止まらない。
『ほったまるびより』ちょーよかった。
説明するのめんどくさいので、紹介はこちらからどうぞ。
太鼓の音とか、音楽とか効果音もすごく好き。
出てくる女の子たちの感覚とか体使いとかも分かる感じがする。
私の中ではこの映画の雰囲気と似てた。
エロいとかおしゃれとか意味とかじゃなくて、どーんって響いたって感じ。
はまったって感じ。
できるなら私もやりたい、出たい。
こんな身体を目指してる。
こないだ人と話していて、自分には実は体しかないっていう話になって、
意識とか頭とかあるんだけど、それはあるようでなくて、過剰というか。
でも目の前にあって、動いている一番おもろいはずの体っていうものを無視している気がしていて。
私個人もそうだし、今の社会もかなぁ。
昔は、体を使って狩りをして、狩猟をして、踊って、ってすごく体をダイナミックに使うことが自然だったように思う。体は生きていくために必要なツール?ともいえたかも。
科学が進歩して、いろいろなことが体を使わずにできるようになった。
それはそれですごくよいこと。
危険なことは自分たちが作った機械にやってもらって、机に向かう作業で生活が成り立つ。すっごい便利、人間すっごい、めっちゃ頑張った。
ITとか進んでめっちゃ楽しいことができるようになった、遠くの人ともつながれるようになった。
頭の遊び超発達。コンサル業界とか頭の世界 大儲け。
体の遊びは???スポーツとかダンスやってる人もいるし、夜の営みだって体の遊びだけど、、
ちょっと弱くないか。子供が走り回ってるように大人は走り回っているのか??
鬼ごっことかしてるのか?
音に合わせた変なダンスとかしてるのか?
(子供は純粋、子供は的を得たこと言うと言うけど、
私は子供=人間の素だと思うから、人間は嬉しくなったらはしゃぎたいし、走り回りたんだよ、人間はもともと的を得たこと言うんだよって思うの。)
もっと体の遊びしたい。
体ってめっちゃおもろいじゃん。
という気持ちで見てたんです、あの映画を。
今からどうやって踊ろうかって思案中。
この今ってほんと今ね。5月24日10時53分の今ね。
ダンス教室探してとかじゃなくて、音楽に合わせて踊れば私は満たされるので。
体の遊びしよーー。みんなーーーー。
あえて言うことでもないけど、私は間違えないと分からないタイプです。
インスタライブをやってみたり、変ななんかのオーディションを受けてみたり、「どこに向かってるの?」と自分でも分からないコニシです。
そうなんです。
わたしゃ、人からそれ違うよ!とか、実際にやってみて違うなと実感できないと、間違えていると気が付かないタイプです。
ということが分かった。というか、この確信は日々固まっている。
怖がりな割にはおっちょこちょいな私は、これまで結構な間違いをしてきました。
・SNSの違うアカウントで記事をシェアしてしまった
・メールの宛名を間違えた
・請求書の送り先を間違えた
・平成〇〇年と書かれた欄に堂々と2014年とか西暦を書いた
まぁこの辺はまだしも、
・大学院に行って研究者はちょっと違うかもと思った
・会社に入ったらそれの100倍くらい違うと思った
・面白そうと思ってやってみたバイトだけど全然自分に合ってなかった
・あこがれが先走って付き合ってみたら、全然合わない人だった
とか。仕事でも、自分がおもろい!つぼを探しすぎて、目的から外れること多数。
・会社のメディアにエモい詩を載せようとした
・記事を書いて面白いと思ったところが、まったくささらない
・SNSのできあがっている空気感をガン無視してすべる
こう書くと特に変わったことでもない気もしてきた!笑
けど、気を取り直して書き続ける。
つまり、実際に人から間違っていると言われたり、明らかに滑ったとかやらかした💦て思わないと自分の方向性が間違ってることに気づかないんですね。
これはこれでいんだけど、失敗するのが怖いもんだから、辛いですよね。
自分では慎重にやってるつもりなのに、良かれと思ってやったのに、外すって・・・・
でもね、もう学んだわけですよ。
私は、ずれる。間違う。
ほぼ修正されるし、だいたいミスがある。
ということは、
人から指摘された・・・・ガーーーン ではなくて、
チェックしてくれた!!!せんきゅう(●´ω`●)
って感じなんですね。
自分が間違ってしまった。。。恥ずかしい・・・という部分ばかりにフォーカスして、ミスをしたらどうしようと怖くなってたけれど、大事なのは「それが修正された」という事実なんですね。
ミスが修正されたら、そのほかは特に大事か?みたいな。
自分が怒られたとか、恥かいたとか、自分の人生にとってそこまで大したことじゃないんですよねぇ。
(もちろん、適当にやったらいいというわけではない。)
(失敗が怖いタイプは多分適当にやれと言われてもできないタイプと思われる)
小学生3年生の時に「教室は間違うところだ」という詩を教室に貼ってくれた先生がいて。間違ったら覚えるんだよ、みたいなええ詩でしたわ。
その時からインプットはされていたのに、腹落ちするまで20数年かかったぜ。
すごい、まっとうな普通なことを書いている気しかしないけど、まあいいや。
私を象徴したサボテン「コニシ」
おやすみ。
mimp indah
私は本当に物書きになりたいのか?と問うてみた。
何がしたいの?と聞かれて、ここ10年くらいは物書きになりたい、と答えていますが、実はイマイチすっきりしない。
すごーく小説が書きたいわけではないし、ジャーナリストになって世の中の真実を暴きたいというわけでもなし、マーケティング的な文章を書くのが得意だとも思わないし。
なんなのだ?なんなのだ?
今、これをもうちょっと掘り下げることが、「何かやりたいのに何したらいいか分からない」という最近のもやもやへの一番近道な気がする。
周りの人にはまた&まだそんな分析やってんの?と言われるけど、飽きるまで考えるもん。遅れてやってきた自己分析癖とモテたい欲求(何のこっちゃ)。ということで、自分のやりたいことの解像度を上げるために「自分と書くこと」について 掘り下げていきます。
マンションの廊下で寝そべって書いていた詩が原体験
思えば、私の書くことの原体験は物心ついた頃に、鉛筆とノートだけ持って自分家(マンション)から飛び出して、共用部分の廊下やエントランスで詩みたいなものを書いていたこと。母親によると、「ちょっとさとこ行ってくるわ」と急に家を飛び出してたらしい。
雨のしずくがぽちゃんぽちゃんと垂れるところを見て、雨がぽっちゃん みたいな詩を書いていた。多分その頃から、「ここではない世界」に憧れていて、マンションの公園の向こうには不思議な国が広がっているとよく空想していたなあ。
あとは、その場の空気から感じることとか余韻みたいな言葉にならない感覚をどうにか言葉にしたかったような気がする。
例えば、ある日マンションの友達と遊んでいてすごく楽しかった。女の子のごっこ遊びに珍しく男の子も加わって、敵と味方に分かれて戦って、復活して、また戦って。汗だくになって遊ぶ。もう夢中で。でも夕方になってお母さんたちが「ご飯よ」と呼びに来る。あーあ、せっかく盛り上がってたのにといいつつ、泣く泣く解散する。
それで、次の日もその時の楽しさが忘れられなくて、同じことをやってみるんだけども全然面白くない。なんか、違うんだよなぁ、昨日ほど盛り上がらないなぁとその場の誰もが思ったことがあった。
その時の残念な気持ちとともに、その時そのメンバーで生み出される空気感・ライブ感が大事なんだなと強烈に感じたのを覚えている。
それも詩に書いた。
なんだろう。自分の発見を言葉にしたかったんだと思う。
私にはこう見えたよ、こう思ったよ、って言いたい。
お母さん、聞いて聞いて。さとここんなこと思ってん。どう思う?って感じ。
それが小学校4年生の時に書いたこの詩みたいなやつ。
当時私は本当に男子というものが意味不明で、かっこつけてるくせに、甘えてくるという謎な物体でしかなかった。それを表現したかったんだと思う。
今見ると、自分でもよく言っちゃってるなー、と思うけど当時はほんと邪心なし。自分の発見、物の見え方を言語化したかったのです。
ちなみに、なぜ、言葉だったかというと、私は本を読んだりして言葉に感動したり、助けられたり、自分にとって身近だったからだと思う。
作文を褒められた記憶はない
作文とか読書感想文も書くのは好きだったけれど、決して褒められた覚えはない。
それもそのはず、と今は思う。
清少納言の枕草子スタイルの現代版を書いたり、(提出直前に書いたかなりテキトーなやつ)
Oh!紙という名前の狼の一族が崖から飛び降りて、動物占いの狼の姿になるという謎の物語を書いたり(当時動物占い流行ってたからさ)
自分が思いついたアイディアに満足して、内容やその背景を分かりやすく説明するとか一切していなかった。だから、先生のコメントはいつも「苦笑」という感じだった。
「小西さんは、なぜこれを書こうと思ったのでしょう?」
「予想を裏切るユニークなお話ですね」
「先生はこんなこと思い付きもしません」
とかね。
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
まあね、今思えば大人は困るよねって思います。
だって色々意味不明だもん。
一方、それを見た私はというと、
ふーん、先生よく分かってねえな(私の面白さを)
この人、凡人だからさ、理解できてないね
と思って評価されないことに慣れていきました。
多分本当は「面白かったね」と言われたいし、この物語の面白さはこの部分だからここをもっと膨らませたら?みたいな感想が欲しかった、よね。
だけど、基本スルーされてた!笑
それで、私はそこに凹むというよりは、この人たちは分からない人たちなんだと自分で距離をとることで、自分を守っていたんだと思う。
自分の世界は自分だけで守ろうと決めたんだと思う。
分かってもらえない、という孤独感は自分が選択していたみたい。
「分かってもらえない」と思う気持ちの根源が見えてきたよ
書いていてちょっと切なくなるから、きっとそうなんだろうな。
でもね、先生の立場を考えるとさ、そりゃわかんないよ。説明してくれないと。
あなたにあなたの世界があるように、人にはもれなくその人の世界がある。その世界を通してしか、人は物を見られない。
だから、人に分かってもらうには、私はこういう世界を作ったんです、それはこういう気持ちでこういう意図なんです、ってある程度は説明して相手の世界で相手に認識できる形に変換しないといけないんだよ。
って今なら分かるけどさ。
当時のさとこさんは、それがよく分からんかった。というか、分かったのついこないだ。ちょっとゆがんだプライドを持つことで、自分を保ったようです。それはそれでよく頑張ったね、小学生のさとこ。
メディアの役割から見ると…?
少し話は逸れますが、メディアについての本を読んでいて、メディアの役割は3つあると書いてあった。
1.何が必要とされているかリサーチする
2.必要とされているコンテンツを作る
3.そのコンテンツを必要な人に届ける
みたいな内容だったと思う。
この中で私が書きたい!と思った時にする行動は
1.何が必要とされているかリサーチする
2.必要とされているコンテンツを作る
3.そのコンテンツを必要な人に届ける
だけ。「何が」 「いま」「誰に」 必要とされているのか、は決定的に考えていない。
自分が発見したことを発見したぜ!と手近なところで叫ぶという衝動。
これ以上でも以下でもない。
今のところ楽しいけれど、私を知っている人が「くくく」と笑う暴露ブログ。
趣味。これで食ってきたいのか?さとこ??と問う。
私は自分の書きたいという原点を遡って、ほんとうにこれだ!と進むにははっきりさせたい。私は何になりたいのか?何を形にするときが楽しいのか?
でも、こういうことをして飯を食っているのは、多分書き手のキャラが十分に認識されていて、その人が書くなら読むぜっていう層がいる人。ふーむ。
物書き=プロの書き手になりたいとのことだけれど、わたしゃ本当はどうしたいの?ゆっちゃいなよ。
多分、ふらふらぁ~っと思ったことを書くエッセイストみたいのになりたいんじゃないの?それなら、どうすんの?って。
とここで、疲れてきた。
とりあえず、徐々に解明は進んでいる。
・私が書きたい!という原点は、自分のものの見方を言葉で切り取りたい、ということだった。
・私が書きたい!というときやっていることは、本当に自分の思ったことを表現するだけ。
・どうやったら、この書きたい!を続けられるか、そこで頭を使いたいところ。
次は、私がなりたい!と思う米原万理さんへの愛を語る回へと続く。
ふらふらエッセイストに加えて、少々のアカデミックスパイスを加えたいさとこです。
出会い系サイトで70人と…を読んだ感想。
出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと
- 作者: 花田菜々子
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昨日この本を読みまして、大変参考になった。
内容は、ヴィレバンの店長をしていた著者が、1年くらい出会い系サイト(実際はもう少し意識高い系マッチングアプリ的なもの)で知り合った70人に本を薦めまくって、個人的な問題を乗り越えつつ、本を薦める技術をあげていくお話しです。
思ったことは2つ。
1.作者さんは自分の好きと仕事がマッチしている
言い換えれば、本の作者さんが自分の適性を自分でよく分かっていらっしゃるということ。例えば、作者さんはサブカルに傾倒して漫画や本が好きで家でもそれを読むし、サブカルの聖地とも言える下北沢のヴィレバンに入り浸っていたそうです。
そういう自分の趣向を分かった上で、大学卒業後にふらふらして就職でもするか、というタイミングで下北沢に住み、通っていたヴィレバンに貼ってあった求人広告を見てヴィレバンに就職するというごく自然な流れ。
これ、これ。
こういう本音をベースに自分の勤め先を選んだ著者さんがすごいと思うし、大変に羨ましい。私にも欲しかったです、こういう視点 (T_T)(T_T)(T_T)
働き始めても、共通の趣味や世界観を持つ人たちと一緒にいるのはとにかく楽しくてしょうがなかったとか。
いーなー。
あたくしそんなん思ったことがないっす。
誰もが好きと仕事の適性が合致するとは限らないけれど、少なくとも自分がどの世界に身を置くのが心地よくて、力が発揮できるのかを自分で掴んでいることは強いと思うのです。
私は、ここがいつも苦労ポイント。仕事に関しては、力んじゃって自分がどういうタイプかは脇に置いてしまい、妄想のイメージで「こういうのいいかも」、「なんかかっこよくて素敵かも」、「案外自分にはまるかも」なんていって無理矢理動いてしまうんです。
ここでの反省ポイントは、夢見る愚かな自分というよりは、自分の本音に気がついていながら、それを見て見ぬ振りをしていること。
なんとなく分かるじゃないですか。
「いやいや、でもこれはちょっとちゃうなー」とか、
「これはやりすぎやわ」とか
そういう心の声が聞こえていないわけではないのに、
「これやったら面白くない(。-∀-)」
「やばくない(。-∀-)」
という謎の声に押し切られ無茶な行動をしてしまうっていうね。
そうやって無茶な選択をすると、たとえ一度は実現しても「あ、なんか違う」と思って違和感を覚えていく。結果、長続きしなかったり、違和感に耐えられず自分の選択を恨んだりしてしまう。
その違和感は自分にはこれは向いていなかったんだというサインなので、それはそれでいいんですが、何度も続くと自分との信頼関係がガタガタになるのがよろしくない。
あぁ、まただめだ。
私に向いていることなんてない↓↓↓
誰も分かってくれない↓↓↓
というループにはまっていくんです。
よく考えれば、その違和感は当たり前の結果なのに、これが絶対に良いはずだ!!という思い込みが強いと、それがうまくいかなかった時にガクッと凹んでしまうんですね。
仮に、自分があまり足元を見ずに動くタイプだと自覚があれば、違うなと思った時、あ、これ違うんだとサクッと次に進む、でいんですよ。さとこさん。
2.自分の問題を乗り越えるために始めた本の紹介で、自分に磨きがかかっている
これ、作者さんが体を張って実施した一大フィールドワークなんですよね。どう考えても。人生は壮大な実験で飽くなきフィールドワーカー(きらり)を自称する私は、私もこれやりたい!!という声がもれそうでした。
1年間人に本を薦める過程で、アドバイスされてプロフィールを修正したり、最初は身体目当ての人が続いたと後で気が付いたり、変てこりんな小説書いてくる人に吐き気を覚えたり、自分よりも本を読んでいる人がいて冷や汗をかいたり、
経験に比例して、コミュニケーションスキルも、人を見る目も、本の薦め方もどんどん洗練されていくんです。
その結果、ブックコンシェルジュというお仕事に就くことになり、自分の経験を連載するようになり、この本が出版されるという、ゴールデンコース✨
ここで私が大事だと思うのは、最初からこの体験をネタにしようとか自分の仕事につながるように本を紹介しようという気持ちからではなくて、
これ面白そうだ!
切実に今の自分にはこれやってみたい感じするねん!
という動機で始めたように思えることです。本当のところは分かりませんが、私にはそう思えました。だからこそ1年間も続いたし、結果的にお仕事にも結び付いたんではないかなと思わずにはいられない。
私も、等身大の自分が現在、楽しめる事に集中したい。
人にばっかり散らしていた目を自分に当てて、もっと解像度の高い自分自身を見つけたい、と思ったのでありました。
読まれても「いいね!」されない件
昨日、久々に会った学生時代の友達に、「ブログ読んでるよ」と言われました。
なんか、っぽいね、最近暇なの?、とか近況報告にはちょうど良いとか、それぞれに感想をいってもらって嬉しいんですが、心境としては…
あ、そうなんだ…この人も読んでたんだ。(ちょっと意外)でも、いいね!とかされない。いいね!欲しくて書いてるわけじゃないけど、いいね!があまりに少ないとすべってる感が自分的につらい…
でも、いいね!欲しさに書いている感は自分的にはもっと嫌。
共感されたいわけじゃないもーん、気持ちを整理するために書いているんだもーん。
というのもある。
今のところ
気持ちの整理:いいね!欲しい感 =7:3
くらいの割合なんでしょうね。
気持ちを整理したいし何かアウトプットしたいんだけど、せっかくブログ書くんだから「いいね!」貰えたら嬉しい、貰えないと寂しいという感じ。
しかし、内容的に反応に困るともいわれました。
なんでだろうか?
自虐だからなのかな?
よくよく考えると、別に「いいね!」と言われたいのではなく、「ククク、読んだぜ」と思ってるなら、そういう反応が欲しい。
は!これが承認欲求というやつなのか。
願わくば、一日でも早くこの承認欲求という奴から解放されて、私楽しい、ウフフ、生きてるだけで素晴らしい、以上、マル、といきたいけれど、承認欲求さんは根強い。して、やや無理くりだけど、多分人に認められたいという承認欲求は悪者ではないのだと思う。
要するに、何が言いたいかというと私「いいね!」が欲しいので、みんな読んだら(心の中でクククと思っててても)「いいね!」ボタンを押そうねってお話です (^_-)-☆
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