ワークショップの余韻
17日(日)に本番があった区民参加劇の余韻がずーっと心に残っていて、ふわふわしている。
ここ数年、大学院を卒業してからかな、自分が関わることで心がここまで、がっと鷲掴みにされたことがなかったから、なかなか感慨深い。
前にも書いたけれど、
好きなことは考えなくても分かるもので、今回のワークショップはまさにそれだったと思う。
8回ワークショップがあって、最終回の本番では舞台の上で自分のエピソードを語って歌ったり、踊ったりするんだけどそこに向かわせる過程が自然で無理がない。
さとこ画伯の魚の絵
だいたい、ほとんどの人が演劇を日ごろからやっている人ではないので、いきなり「はい!」と言われてできることじゃないんだけど、ここでは自分をさらけ出してもいいんだという場づくりから入っているから、抵抗がない。
100のエピソードを出して全員で聞きあう
まず、6回かけて、参加者全員で大学のゼミみたいに机を円形にして自分たちのエピソードを話してく。笑い話あり、恋バナあり、ちょっと重めも話あり、と人それぞれ。
19人もいたから、毎回5、6時間かけたりと結構なボリュームなんだけど、人の話を聞いて、「あ!この話をしよう」と思いついたりする。
事務局の方によれば、全員で100のエピソードを出し合ってみんなで聞きあったらしいです。
さとこ画伯 リボン
参加者の方は、表現したい!というパッションを持つ人だから、人の話を聞いて、自分の番ではこう盛り上げたい、とか、これを話してもいいんだな、とか葛藤もしながら心が少しずつほぐれていく。
その話にみんながコメントをしていく。それも、はじめはちょっと沈黙が続いたりするんだけど、だいたい2,3周するとキャラクターが分かってくるので、反応が予想できて、ポツポツとみんながコメントをし始める。
「男性VS女性」で意見が分かれたところではちょっとおもしろかったな。
私は、人間観察がライフワークなので、あ、あの人はこういうタイプの20年後だな、若いころはもっととがってて、結婚を機に丸くなったんだなといつもながら一人妄想を楽しんだりしていた。
そうやって世代も趣味も違うひとたちがちょっとずつまとまってくる。
さとこ画伯 ムーミンママ(模写)
最初に自分がどう呼ばれたいか決める
話はつれづれ何のまとまりもないですが、最初にみんなの「呼び名」を決めるのも人と人の距離感を縮めるコツだと思った。みんながまだ固い感じの初回で、自分のあだ名を発表して、その場で全員でその名前を呼ぶ。
そうすると、不思議といつもは背負っているはずの肩書とか立場からぽこっと出てきたその場のその人と関わっている気になってくる。
参加者同士で影響しあう
みんないい意味で他人には興味がない。自分の表現に必死だから。だけど、意外なところで他人の話とか振る舞いに影響されてくる。
例えば、緊張してがちがちになっている他の参加者がいたとする。みんな黙って見ているけど、当然だれも笑わない。
先生は、ただただ「大丈夫ですよ、あなたを出せばいいんですよ」と伝える。みんなは、その人の人柄が分かっているからこそ、あぁ精一杯やっている姿ってなんて素敵なんだろうってどっかでキャッチして心打たれるんだと思う。
黙って見ていたはずの他の参加者の人が、自分の番になると、話し方とか、振る舞いがどんどん活き活きしてくる。演出家の人がこうしてくださいなんて一言も言ってないのに、いい感じの手ぶり身振りがついたり、ちょっとオーバーだったアクションがそぎ落とされたりしてくる。
これは何の魔法なんだろう?って何度も思った。
あとで聞いた話だったけれど、本番では話していないエピソードを聞いて、自分のエピソードを思い出した人もいた。もしくは、話そうと思っていたけれど自分の中で消化(浄化)されて癒されていた人もいたようだった。
そうやって、何層にも何層にも自分の経験が思い出されて、表現されて、癒されていた。私もなんでだかは分からないけど、ほかの方の全然違う話を聞いていて涙がとまらなかった時が2,3回あった。
決して、そういう癒し場として設定されているわけじゃないんだけど、結果的にはお互いに人の人生の印象的な場面に出会うことで、その人の理解、翻って自分への理解になっていた。
はー、思いつくままに書いてしまった。
私は、どうしてもメタで見てしまって、自分の感情がどこでどう動いたのか書かないので、なんじゃこりゃと思うかもしれませんが、私今とっても熱いです。
ずーっとやりたかったコンテンポラリーダンスもはじめの一歩を踏み出します。
絶対、死ぬまでにやらないと死ねないとまで思っていたので。
表現の扉があいてしまったので、インプットではちょっと物足りなくなってきたぞ。春のもぞもぞが心地よいです。
大好きなミロコマチコさんの絵