日記

日々おもふこと

なぜチャラい人が怖いのか~ぽっちゃり小学生さとこのお話

それは、子供時代のトラウマなのです。

(※私のわかってちゃんの話なので、腹が立ったらそっと読むのをおやめくださいまし、、)

 

子供って結構残酷じゃないですか。本能的に人が嫌がるところを突いてくるというか、経験がないからこそ勘が働くのか分からないけど、

私は、ガリ勉ではなかったけど、保守的な両親に育てられた割とまじめな女の子でした。学校が好きだったかといわれれば、普通でした。勉強は好きだったけど、周りの人へ気を遣うのに疲れていたな、と思います。

 

勉強が好きだと、先生に褒められたいからとか、親に褒められたいからやってると思われがちだった気がします。けど、私はそういうことよりも、知らないことを知ること、学ぶことが楽しくて好きでした。どれも新しく知ることばっかりで、仕組を知ることが楽しかったし、新しい言葉を覚えるのも好きでした。だけど、人と一緒に学ぶのは気を遣いました。答えはなんとなく分かるけど、ここで私が手を挙げたら空気読めない感じになるだろうな、とか生意気にも思っていました。先生が答えさせたくて必死な感じとか、普段手を挙げない子に答えさせたい感じとか、気を遣ってしまってその空気が嫌でした。ああ、今思い出してもすごい嫌な感じがする。涙が出るくらい嫌な感じがする。。。

そこで集団で何かをやること、組織に属することへのいやなイメージような気もする。

 

だからテストのときはすごく楽でした。誰にも気を遣わなくていいから。わかっても分からなくても自分の責任なテストはすごく楽でした。周りの人に気を遣うこともなく、先生に気を遣うこともなく、学問という大きな遊びに浸ることができるから。

誰からも邪魔されない、自分の世界で遊べる。学校で習うことは基本的なことであっても、その裏にはたくさんの人が考えてきた歴史ともしかしたらこうかもしれないという考える余地がありました。今でも図書館に行くと、ああ人間でよかったと思います。文字があって、翻訳技術と出版技術があってこれだけ、いろんな人がいろんな分野で考えたり、試行錯誤した結果を手に取ることができるんだなーってたまに感動して涙が出たりします。

 

今でも人に合わせるのが苦手な傾向はあります。

仕事でも、ここからここまではあなたの仕事です。いつまでにやってください、というのはいいけれど、周りを見ながら調整して進めていくのはそこにエネルギーが費やされて、気疲れでへろへろになってしまう。待ったり、反応を見たり、することが仕事だとしんどい。それはみんなそうか。

 

話を戻しますと、

それで小学校で自習の時間があったんですね。先生が来なくて。その時、私はまじめに教科書に書いてあることをノートに写していました。そういう時間だったと思っていました。けれど、周りの人は結構遊び始めたんですよね。うるさいなー思ったけれど、ふーんと思ってたんですね。そのとき、遊び半分に私のノートをのぞいて、こいつ、まじめに勉強なんてしてやがる!みたいにちゃかされたんです。その時のなんで?自習の時間に勉強するやつってださいの?ガーーーーンみたいな感じが残っちゃったような気がする。たぶん、ださいいんじゃんなくてイケてる(死語?)自分でいたかったんでしょうね。ぽっちゃり小学生さとこさん。

 

自分の世界は自分で作ってるので、ださい自分をいやだと思ったの自分が、こういうトラウマを作ったんだと思います。ちゃかした人は悪くないです。誰だったかも覚えてないし。ただ、「私の中でチャラい男の人=バカにされる」という図式ができて今に至ります。。だから、今でも(私的)ちゃらい人を見ると反射的に、やばい、やばい、逃げねばと思ってしまいます。

 

そして同じく、私的3大チャラい男の人がやってそうなスポーツ(スノボ、サーフィン、ゴルフ)には手が出ません… 好きな人、すいません( ;∀;) 

 

なんかトラウマの話、分析がてら書いてみた。

私の分かってちゃん全開。けど、いいや。私こーゆーとこあります。